松岡氏の興隆と衰亡
天文23年(1554)甲斐の武田信玄は、自ら大軍を率いて伊那に入り、抵抗の素振りを見せた鈴岡城の小笠原氏と神峰城の知久氏を攻め落としました。その様子を見た松岡氏は抵抗は無理と考え、武田の軍門に降り自領の安堵を図りました。そして、松岡氏は50騎の軍役を課されました。1騎に対し5人程の従卒を要したので、松岡氏は出陣の際には200人余りの軍兵を出したこととなり、その力の大きさが偲ばれます。
天正10年(1582)織田信長の軍が伊那郡に侵入しました。松源寺も含め、多くのお寺が兵火により焼かれてしまいました。この時代の松岡城主は松岡兵部大輔頼貞で、頼貞は信長に帰順し、その本領を安堵されました。
ところが、信長の急死により伊那軍は徳川家康の勢力下に入り、郡司菅沼定利が上下伊那郡を支配しました。この頃は信長の死後豊臣秀吉と徳川家康のどちらが後継者になるか決まっていなかったので、信濃の豪族も去就を決めかねていました。
そのような中天正13年(1585)松本の小笠原貞慶は、徳川方から豊臣方に変心し、徳川方の保科氏を高遠に攻め、逆に大敗して松本に退きました。この時松岡右衛門佐貞利は徳川家康に誓詞を入れて臣服を約していながら、小笠原貞慶に味方し高遠の攻撃に向かいましたが、形勢が不利と見て引き返しました。
ところがそれを、家臣の座光寺次郎右衛門が菅沼定利に密告されてしまいました。直ちに松岡貞利はとらえられ井伊直政に預けられることになったのです。そして家康の面前で座光寺氏と対決させられました。井伊直政は父・井伊直親をかくまってくれた貞利への恩に報いようとしたが、その願いはむなしく、天正16年(1588)松岡貞利は改易を命じられ、その所領は没収されました。
ここに「松岡古城」・「松岡城」を本拠に約500年間続いた松岡氏の支配は終わりを遂げたのです。
この後、貞利は死を覚悟しますが、直政は家康に必死に助命を乞い、貞利の身柄を預かることを願いました。直親の信州でのこともよく知っている家康は、信頼する直政の必死の願いを聞き入れ、貞利の身の処分を任せたのでした。
直政は、貞利を500石の禄で家臣の列に加え屋敷を与えました。父直親の長い間の信州での恩義に報いたのでした。