葵祭り見学
研修後、丁度葵祭りの日であったので、中々こんな機会も無いので、見学に行きました。(以下Wikipediaより)
葵祭は賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の例祭で、古くは賀茂祭、または北の祭りとも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさしていた。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになって、この名があるとされる。
二葉葵(賀茂葵)
もともと古代より、賀茂神社の神紋として使っていた二葉葵(別名、賀茂葵)が更なる由来である。著名な徳川家の三つ葉葵紋の原型とも言われ、徳川家康の先祖である松平信光が賀茂朝臣を称していた事や、松平氏の出身地が三河賀茂郡松平郷でもある事から、『「三つ葉葵」も葵祭で有名な京都の賀茂神社との関連の深い』と述べる研究者も居る。実際に徳川家も葵祭を重視しており、徳川家茂は上洛した1863年に、孝明天皇に随行して共に葵祭に参列している。
祭の起源と沿革は、欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命をおおせつかって、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。819年(弘仁10年)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行うという国家的行事になった。
源氏物語にも、葵祭の斎王列を見物しようと、光源氏の妻、葵の上と六条御息所が、車争いを演じた場面が登場する。 それから10年以上経ち、光源氏と紫の上が桟敷席から祭り見物する場面がある。ちなみに、紫の上は幼い頃、光源氏が勅使の役目を終えて休暇を迎えた際に、牛車の中で祭りを一緒に見物していた。
1943年(昭和18年)、一部儀式が中止。1953年(昭和28年)、宮内庁に中止されていた社頭の儀の復興を申し入れ、奉幣の勅使として三条実春が参向した。また、葵祭行列協賛会が宮内庁から装束、調度品の貸与を受けた。
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